クトゥーチクの顔からすーっと血の気が引いた。「ウルゴ?」かれはあえいだ。
「気の毒に、老クトゥーチク」ベルガラスはいかにも残念そうに頭を振った。「めっきり腕が落ちてきてるようだな。計画は悪くなかった。だが、どうしてわしをこんなに近づける前に王女が本当に一緒にいるかどうかを確かめることを考えなかった?」
「王女でなくても、他の者でも同じことだ」クトゥーチクは目をメラメラと燃えたたせて言い張った。
「いや、他の者には攻撃の隙がない。セ?ネドラは無防備な唯一の人間だが、彼女はプロルグだ――ウルの加護のもとにいる。それでも攻撃したいのなら好きにすればいい。だが、わしは勧めはせんぞ」
「畜生、ベルガラスめ!」
「さあ、おとなしく〈珠〉をよこしたらどうだ、クトゥーチク? わしがその気になれば、難なく奪い取れるのはわかってるだろう」
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 クトゥーチクは気持ちを静めようとあがいた。「あわてるのはよそうじゃないか、ベルガラス」ややあって、かれは言った。「互いを滅ぼしあったからって、一体何になる? クトラグ?ヤスカはわしらの掌中にあるのだ。二人でこの世界を分けようじゃないか」
「世界を半分もらっても仕方ない」
「全部独り占めしたいというのか?」短い、悟ったような微笑みがクトゥーチクの顔をよぎった。「わしもそう思った――最初は――だが、半分で我慢しようというと言ってるんじゃないか」
「本当のことを言えば、わしはそんなものはこれっぽっちも欲しくないのだ」
 クトゥーチクの表情は失望に変わった。「じゃあ、おまえの望みは何だ、ベルガラス?」
「〈珠〉だ」ベルガラスはすげなく答えた。「〈珠〉をくれ、クトゥーチク」
「二人で力を併せ、〈珠〉を使ってゼダーを滅ぼそうじゃないか?」
「なんのために?」
「おまえもわしと同じぐらいあいつを憎んでいるだろう。あいつはおまえの〈師〉を裏切った。そしてクトラグ?ヤスカをおまえから盗んだ」
「クトゥーチクよ、あいつは自分自身を裏切ったのだ。その事実は今でもあいつの脳裏から離れないはずだ。それはともかく、〈珠〉を盗む計画は見事だったな」ベルガラスはテーブルの前に立っている幼い少年をしげしげと眺めた。少年は大きな瞳で鉄の樽を一心に見つめている。
「こんな子供を一体どこで見つけたんだろう」かれは感慨深そうに言った。「もちろん無邪気さと純粋さはすっかり同じものではないが、非常に似通ったものだ。まったく邪気のない者を育てるのに、ゼダーはそれこそ死ぬほどの努力を払ったに違いない。かれが抑えなければならなかった衝動の数々を考えてもみろ」
「だからあいつにやらせたのだ」と、クトゥーチクは言った。
 かれらが自分の話をしていることに気づいたのか、金髪の少年はすっかり信じきったような目で二人の老人を見た。
「とにかく要は、クトラグ?ヤスカが――〈珠〉が、まだわしの掌中にあるということだ」椅子の背にもたれ、片手を樽の上に置きながらクトゥーチクが言った。「もし力づくで奪い取るというなら、受けて立とう。どういう結果が出るかは、わしにもおまえにもわからない。どうだ、いちかばちか賭けてみるか?」
「〈珠〉がおまえに何をしてくれるというのだ? かりに〈珠〉がおまえに従ったとして、その後はどうする? トラクの目を覚まして、〈珠〉を手渡すか?」
「そのことも考えた。だが、トラクが眠りに落ちてもう五世紀になる。かれがいなくとも世界はうまく動いている。今彼を起こしたところで、何にもなりはしないだろう」
「ということは、おまえの手元に置いておくということになるな」
 クトゥーチクは肩をすくめ、「どうせ誰かが所有するのだ。それがわしでなぜ悪い?」
 かれはまだ椅子の背にもたれたままで、すっかりくつろいでいるように見えた。そしてそんな折り、何の前触れもなく、感情の変化をまったく顔にも表わさず、かれは不意に攻撃してきたのだ。
 その衝撃はあまりに急だったので、うねりが起こるというよりは激しい一撃を食らったようで、すでに馴染みとなったあの頭の中の轟きではなく、雷鳴のような大音響を呼び起こした。ガリオンは瞬時のうちに、もしそれが自分に向けられたものだったらおそらく自分は死んでいただろうと悟った。だが、それはかれに向けられたものではなかった。それはかれではなく、ベルガラスを襲ったのだ。一瞬、ガリオンはかれが夜の闇より暗い影の中に吸い込まれていくのを見た。だが、次の瞬間、その影は華奢なクリスタルのゴブレットのように粉々に砕け散った。今や厳然たる表情になったベルガラスは、まだ宿敵と向かい合ったまま、「これで精一杯か、クトゥーチク?」と言うなり、自分の意志を解き放った。
 燃えるような青い光が一瞬のうちにグロリムを取り巻いたかと思うと、さらに迫ってかれの体を激しく押しつぶした。かれの座っていた椅子は、急におそろしい重力がかかりでもしたかのように、ぺしゃんこにつぶれ、粉々にさけた。木切れの中に転がったクトゥーチクは両手で青白い光を押し返すと、よろよろと立ち上がり、炎をもって応酬しようとした。一瞬、〈ドリュアドの森〉で焼け死んだアシャラクの姿がガリオンの脳裏をよぎった。だが、ベルガラスは炎を払い退けると、いつか「〈意志〉と〈言葉〉があればジェスチャーは必要ない」と断言したにもかかわらず、片手を掲げ、光でクトゥーチクを打ちつけた。
 燃えるような光、うねる炎、そして闇に包まれながら、魔術師と魔法使いは部屋の中央で互いに向き合った。むきだしになったエネルギーを何度も何度も爆発させて死闘を繰り広げる二人の姿を見ているうちに、ガリオンの心はしだいに感覚がなくなってきた。かれは、自分の見ているのは戦いのほんの一部で、実は目に見えない――想像すらできない攻撃が交わされているのだということを感じていた。その証拠に、小塔の部屋の空気はパチパチ、あるいはシューシューと音をたてているように見えた。奇妙な映像が目に見えるか見えないかの早さでチカチカと現われては消えた――巨大な顔と顔、大きな手と手、そして名づけることさえできないような数々のもの。二人の強力な老人が想像と倒錯の武器をつかむために現実を布のように引き裂くと、それに答えて小塔全体が大きく揺れた。
 ガリオンは自分でもわからないうちに意志を集め、心を一つにしぼっていた。やめさせなくちゃ、かれの頭の中にはそのことしかなかった。その間にも、激しい攻撃がかれとかれの仲間をかすめている。憎悪を焼きつくしてしまったベルガラスとクトゥーチクが、今度は思考を超え、部屋にいる全員を殺せるほどの力を解き放っているのだ。
「ガリオン! 離れて!」ポルおばさんの声はひどくしわがれていて、ガリオンにはそれが彼女の声だとは信じられなかった。「二人はもう限界に来てるわ。もしあんたが何か別のものを投げかけたら、二人とも死んでしまうわ」彼女は他の者にサッと合図を送った。「皆、下がって。かれらを取り囲む空気は生きてるのよ」
 かれらは小塔の部屋の奥に恐る恐る後ずさった。
 魔術師と魔法使いは今では互いに二、三フィートと離れていないところに立っていた。目をメラメラと燃え立たせ、力を波のように噴き出したり、引っ込めたりしている。空気がジリジリと音を立て、かれらのローブから煙が出た。
 ガリオンの視線が少年に留まった。少年は穏やかな、何もわからないような目でその様子を見守っていた。恐ろしい大音響を聞いても、まわりで繰り広げられる壮絶な光景を見ても、驚きもしなければ怯みもしなかった。ガリオンは今まさに飛び出していって安全なところに引っ張ってこようとした瞬間、子供はテーブルの方を向いた。そして目の前に突然立ちふさがった緑色の炎の壁を、事もなげに通り抜けた。炎を見ることもなければ、恐れることもなかった。彼は爪先立ちでテーブルに手を伸ばし、先ほどクトゥーチクが満足そうに眺めていた鉄の樽の中に手を入れた。そして、丸くてピカピカ光った灰色の石を取り出した。ガリオンは不意にあの奇妙なうずきが始まるのを感じた。だが今度のうずきはあまりにも強く、あまりに圧倒的で、絶えず思いだされるあの歌声が耳から離れなくなった。
 と、ポルおばさんのあえぐ声が聞こえた。
 灰色の石をボールのように両手につかんだ子供が、こちらを振り向き、ガリオンの方にまっすぐ歩いてきたのだ。目には信頼の色が浮かび、小さな顔には自信の表情が満ち溢れている。滑らかな石は部屋の真ん中で繰り広げられている恐ろしい戦いの光が上がるたびにチカチカと光ったが、よく見ると、石の中には別の光があった。どこか奥の方で薄青い強烈な炎が燃えていた――その光はチカチカと揺らめきもせず、子供がガリオンに近づくほどにいよいよ激しくなってきた。子供はやがて立ち止まると、石を掲げてガリオンに差し出した。そしてにっこり笑うと、一言、「使命《しめい》」と言った。
 ガリオンの頭の中にひとつのイメージが浮かんだ。言語を絶する恐怖のイメージが。かれは自分がクトゥーチクの心を見ていることをすぐに察した。クトゥーチクの心の中には、ひとつの映像が浮かんでいた――光る石を手にしたガリオンの映像が――そして、その映像がグロリムを震え上がらせていた。ガリオンは恐怖のうねりが自分に向かって溢れ出てくるのを感じた。ゆっくりと、かれは子供の差し出している石の方に右手を伸ばした。掌のあざが待ちこがれていたように石の方に伸びると、例の歌声が大きくふくれてついに力強いクライマックスに入った。手を伸ばすと同時に、かれはクトゥーチクの中で野蛮な、獣のような恐怖が起こるのを感じた。
 グロリムはしゃがれ声で悲鳴をあげた。「なくなれ!」子供の手の中の石にあらんかぎりの力を向け、かれは死にもの狂いで叫んだ。
 一瞬、塔の中は恐ろしい静寂に包まれた。死闘でやつれ果てたベルガラスでさえ、ビクッと顔をこわばらせ、信じられないといった表情を浮かべた。
 石の真ん中の青い炎は、一瞬小さくなったように見えた。が、次の瞬間、ふたたび燃え上がった。
 長い髪とひげをくしゃくしゃに乱れさせたクトゥーチクは、目を大きく見開き、恐怖にぽかんと口を開けたまま立ちつくしていた。「そんなつもりじゃなかったんだ!」かれは泣きわめいた。「そんな――そんなつもりじゃ――」
 だが、丸い部屋の中にはすでに新たな、途方もなた。その力は光を放つこともなければ、ガリオンの心を圧迫することもなかった。押す代わりに、それはガリオンの心から力を引き出しながら、恐怖に打たれたクトゥーチクを囲んでいくように見えた。
 グロリムの高僧は狂ったように金切り声をあげた。と同時に、かれの体は大きく伸びたように見えた。そして、それがまた小さくなり、もう一度大きく伸びた。すると、次には、体が突然固まって石となり、その石が体の中にわき起こる激しい力で崩壊してしまったかのように、顔面がひび割れはじめた。その恐ろしいひびの中にガリオンが見たのは、肉でも血でも骨でもなく、燃えさかるひとつのエネルギーだった。クトゥーチクの体が眩しいほどに光りはじめた。かれは懇願するように両手を上げて叫んだ。「助けてくれ!」そしてさらに長い絶望的な悲鳴をあげた。「やめてくれ!」同時に音とも思えないような音をたててトラクの弟子は砕け、無に帰した。
 恐ろしい爆風の勢いで床に投げつけられたガリオンは、ゴロゴロと転がって壁にぶつかった。かれは、ぬいぐるみの人形のように飛んできた子供の体を、とっさに受け止めた。丸い石は床の石に跳ね返ってカタカタと音をたてた。ガリオンが石を捨おうと手を伸ばした瞬間、ポルおばさんの手がかれの手首をつかんだ。「だめ! それは〈珠〉なのよ」
 ガリオンの手はその場に凍りついた。